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国政報告
参議院憲法審査会
日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査

平成25年6月5日 (水曜日)
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○小坂憲次憲法審査会会長 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査を議題とし、「新しい人権」のうち、環境権、プライバシー権などについて参考人の方々から御意見を聴取いたします。
 本日は、慶應義塾大学法学部教授・弁護士小林節君及び慶應義塾大学法学部教授小山剛君に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方々に一言御挨拶申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本審査会に御出席を賜りまして、誠にありがとうございます。審査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。
 これまでの経験を踏まえた忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、どうぞよろしくお願いを申し上げます。
 本日の議事の進め方でございますが、小林参考人、小山参考人の順にお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただいた後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず小林参考人にお願いいたします。小林参考人。

○参考人 小林節慶應義塾大学法学部教授 小林節でございます。レジュメの流れに従ってお話し申し上げます。
 新しい人権、一応ターゲットをはっきりさせるための定義でございますが、憲法典の中に直接根拠はないが基本的人権と観念し得る利益、つまり、我が国は判例法国ではありませんので、成文憲法に全く引っかかりがないものはそもそも議論になりませんので、その冒頭部分がございます。
 基本的人権と観念し得る利益というのは、要するに私たち人間の人格的生存に不可欠な法益ということであります。実例として、御存じのとおり、今日は環境権とプライバシーと行政情報に対する知る権利を取り上げさせていただきます。
 環境権につきましては、誰でもどこかに住んでいるわけですけれども、住民として良好なる環境を享受する権利と一応言われておりますが、日本国憲法ができた当時、その直後に私は生まれたわけですけれども、日本に限らず工業力がここまで発展するという現実味がなかったものですから、日本というのは全て水に流すと自然が消化してくれる程度の廃棄物しかない国でありましたので、その後、大変な高度経済成長の後で水だとか土だとか空気だとか環境が汚染されて様々な病気に気付いて、環境が汚染されると環境の一部である人類もひどい目に遭うということで認識されてきて、各国、タイミングの違いはあるけれども、それが憲法典に入ったり判例で認められたりしてきたわけですが。
 ただ、この権利の難点は、権利である以上、最後は裁判ざたで闘うわけですけれども、主張する側が何を主張しているかきっちり示せないんですね。例えば空気を汚したといっても空気は動いていますし、その空気の中に言わば敵も味方も住んでいますし、水は流れておりますしというようなわけで、権利、義務で切り結ぶには本質的に難しい点がある。だからこそ議論も途中で行き詰まっている状態。ですから、自民党の案であったか、国としての環境を維持する責務というような書き方、これがやはり権利論でいくよりはなじみやすいのかなというのが現時点での印象であります。
 それから、プライバシーの権利も、人権先進国のアメリカでも一九三〇年ごろに議論が始まったと記憶していますけれども、割と新しい。つまり、一つは個人主義という意識の感覚の成長もある。それからもう一つは、やはり最近のフォーカス、フライデー現象みたいに、科学技術、テクノロジーの進歩で、人の、私に関する情報で、私であったら他者に知られたくない情報を秘匿しておくという利益が害されることが多くなった。
 つまり、テクノロジーを使って人のプライバシーを盗み、それをテクノロジーを使って大量に拡散することによって、また大衆が面白い、もっと見たいという形でどんどんどんどんプライバシー侵害が起きてくる。だけれども、確かに、私であれば人に知られたくないと思っている、それぞれ誰にだってあるはずですけれども、そういうものが公にされた場合、その人の人格的生存が害されるわけですから、それも保護されなきゃならないという意識が固まってきて、これはもう権利として認識されつつある。となると、条文的にはもう何もないときは十三条の幸福追求の権利という、ドラえもんの四次元ポケットみたいな使い方で、そこから引っ張ってくる。
 それから、知る権利でありますが、これは広い意味で要するに表現の自由の一環として言うこともあるんですけれども、この場合は行政情報に対する知る権利でありまして、すなわち、憲法上、この国会もそうですし、裁判所も、権力機関は公開されているわけでありますが、行政府だけは公開されていない。であるけれども、逆に、福祉国家という名の行政国家状態の中で、国会が立法と予算で行政府にたくさんのお仕事を与える、行政権はそれをもって、裁量権がありますから、気を付けないと必ずしも公平でないことが起きる。
 そういう意味で、主権者としては常に国会や司法権力も監視できるように行政権力も監視したい、これは自然な話でありまして、そこで情報公開、フリーダム・オブ・インフォメーションという、これ世界的なトレンドですけれども、一つはニクソン大統領のホワイトハウスにおける犯罪から急にその需要が高まってしまったんですけれども、そういう意味で情報公開請求権。先年、情報公開法ができましたけれども、これも憲法上の権利としての情報公開請求権がないものですから、国が都合のいい範囲で情報を公開してあげるという構造になってしまっていると思うんですね。
 そういう意味で、やはり憲法上に、環境権はさっき申し上げたようにちょっと不安があるんですけど、プライバシー権は十三条ですかね。知る権利は、十三条の前に国民主権に関係のある条文を見れば、国民主権国家においては国民が国のオーナーですから、国の持っている情報はつまるところ国民のものであるという、その筋道の方が使いやすいかなという感じで主張ができると思うんです。
 ただ、これもう先生方御存じと思うけど、しゃべっていて、要するに言葉の遊びをしているようでちょっと恥ずかしくなったんですけれども、私は今六十四歳ですが、三十五歳ぐらいから、主に自由民主党でありますが、改憲論議にずっとお付き合いしてまいりまして、改憲の主たる論点はこれではないわけですが、主たる論点について、三十年前ですから大変不人気で、そもそも変なマニアが毎月二十人ほど集まって勉強しているという扱いを受けておりましたので、改憲論をもう少しファッショナブルにさせるために、新しい人権などという点であればどなたも異論がないであろうと何度か御助言申し上げた記憶がございます。三十年前の話です。
 だから、そういう意味では、改憲論議の突破口としての新しい人権ということを、どうせ御指摘いただくと思いますから考えておりました。だけど、今はそういうつもりは毛頭ございません。いろんな人に、これで突破した後、九条に行くんでしょうって言われて、一度もはい、そのとおりですと答えなかったこともありません。ただ、改憲論議のソフト化のために使っていたような点がありまして、そんな気を遣うことはないではないかという思いになると、この新しい人権って必ずしも改憲によらなくても済む。
 どなたでも御存じなことですが、プライバシーというのは、要するに人格にかかわるわけですから、大分類でいくと人格権の一つですよね。だからこそ十三条で根拠付けて問題ないんですけれども、プライバシーと似て非なるもの、つまりフォーカス、フライデー現象でやられてしまった被害者が傷つくもの、名誉、社会的な信用の問題ですね。名誉というのも、思えば、憲法の人権リストに並んでいませんけれども、これは名誉が突破されたら、害されたら我々は人格的生存がままならないはずなんですね。ですから、名誉権も分類上は新しい人権であると思います。
 となれば、名誉はもう御存じのとおりすごい伝統がありまして、民法と刑法でがっちり名誉を保護する法制度ができ上がっていて、それについてもう膨大なる判例の蓄積があって、別に憲法なんかなくたって名誉権はしっかり守られている。だから、そういう意味で、法律をきちんと整備することによって、みんなできちんと誠実に裁判闘争を重ねることによって新しい人権というのはおよそカバーできちゃうのかなという気もいたします、別に改憲しなくても。
 ただ、改憲なさるときは是非是非アメリカの憲法を参考にしてほしい点が一点だけありまして、アメリカ合衆国憲法の修正九条、これ人権規定の一つですけど、には、人権とは今ここに挙げられている、このリストに挙がっているものに限らないんだよ、つまり人権のリストはいつもその末尾がオープンになっていて、新しいものが新しい時代に加わっていくものだという原則が憲法にうたわれていれば、それぞれ、例えば宗教弾圧から信教の自由が生まれたし、少数派弾圧から表現の自由とか結社の自由が生まれたとするならば、また新しい時代環境の中で新しい弾圧に直面して、ここに新しい人権の名前を書かなきゃまずいということが共通認識としてなったら、それは人権リストに加えればいいんで、加え方が、憲法典の中に無名の人権もあり得ると書いておいてくだされば、成文法国としてはそれを根拠に、判例による人権の創造は判例法国じゃなきゃできないです、判例法国アメリカでは判例による人権の創造できますが、日本はそうではないですから、判例による人権の確認ができると思うんですね。
 ですから、将来憲法改正が行われるとして、そのときに新しい人権に関する条文を整備なさるとしたら、そこには、人権とは、今、この現人権リスト、憲法典の中の人権リストに載っているものに限られないという一文をどういう表現であれ入れていただければ、この議論はなくなると思います。
 そろそろ終わりにしたいと思っておりますが、こういう機会、毎回、何度でも言うんですけれども、そもそも人間が不完全であるからこそ、借りた金を返さない人がいるから民法が古来あるわけでありまして、腹が立ったからといって人を殺してはいけないと分かっていてもする人がいるから古来刑法があるわけでありますから。そして、王制度が去った後、我々と同じく普通の人間の中から選挙で選ばれた人が政治権力者に任期付きでなって、その下でまた我々と同じ生身の人間の中から資格と訓練で常勤の公務員が選ばれてなって。つまり、全ての人間が、期待できるけど疑わしい側面を持っているからこそ法というのがあるわけで。権力者に向けられた規範が憲法で、それも、特定の時代状況の中で、不完全な人間が見たことのない将来を予測してつくるものですから、この今新しい人権問題が出てきているように、憲法典は完全でなんかあり得ない。あり得ない以上、九十六条が現にあるように、不断に書き直しの努力はしなければならないと思います。
 改めて最後の言葉ですけれども、私たち国民大衆がそれぞれ幸せに暮らすことがこの国の存在理由でありまして、幸せの条件は自由と豊かさと平和であると思いますが、そのためにサービス機関としての国家が正しく組織されて機能していく、そのための指図書、言わばマニュアルが憲法であると私は認識しておりますので、国権の最高機関として発議権を与えられた機関として不断の検討をお続けいただきたいと思います。
 以上でございます。

○小坂憲次憲法審査会会長 ありがとうございました。
 次に、小山参考人にお願いをいたしたいと存じます。小山参考人。

○参考人 小山剛慶應義塾大学法学部教授 小山剛と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 レジュメに従ってお話をさせていただきます。
 まず、新しい人権と一言で言いましても、多分大きく分けて二つの類型があるんではないか。その一つは、プライバシーあるいは情報自己決定権、あるいは環境権もそうだと思いますけれども、これまで憲法に書かれていなかった新しい事柄、新しい事項についての人権というものでございます。それからもう一つは特定の主体についての規定。例えば子供の権利ですとか高齢者、障害者といった特定の主体についての人権。これも恐らく新しい人権と呼べるのではないかと思います。今回の報告では前者の方、プライバシーそれから環境を中心に、新しい事項についての人権について少しお話をさせていただきます。
 まず、今日の報告の結論なんですが、新しい人権が重要であると。したがって、憲法を改正するのであれば、新しい人権は当然にその有力候補になってまいります。しかし、新しい人権のためだけに憲法を改正する必要はないというのが一つ目の結論。二つ目の結論は、新しい人権の明文化を検討するに際しては、まずどのようなタイプの憲法を望むのか、それから第二に、基本的人権という形式で記述するのか、それとも、例えば国家目標規定といった別の形式で記述するのか、それを考える必要があるということでございます。
 二のプライバシー権、広い意味のプライバシー権に進むことにいたします。
 プライバシーといった場合に、いわゆる古典的なプライバシーあるいは狭い意味のプライバシーというものと、それから情報技術の発展に伴って登場した新しいプライバシーという二つのものを区別することができると思います。
 まず、前者の古典的プライバシーは、私生活をみだりに公開されない保障あるいは権利という定義になると思いますけれども、これについてはもう判例上、最高裁も含めまして承認されているわけです。したがって、このような古典的なプライバシー権を今更憲法に明記しても、例えば表現の自由との調整の仕方ですとか、あるいは救済手段に直接の影響を与えるものではない。プライバシー権の明記によって変わるものがあるとしますと、その引用条文とか参照条文が変わるだけだということになろうかと思います。
 したがって、この古典的プライバシー権自体には明文化の意義というのはなくて、他とのバランス、例えば環境権書くのだったらやっぱりこのプライバシー権も書かなきゃおかしいだろうといった、他とのバランスから考えればよいということになります。
 一方、情報技術の発展に伴って登場した情報自己決定権あるいは自己情報コントロール権と言われるものですけれども、これは、先ほど申し上げた古典的プライバシーとは全く別の権利だとして考えた方がいいかと思います。
 一九九九年のあのスイスの憲法の十三条ですけれども、これは第一項では私的生活、そして第二項では個人的データの濫用からの保護ということで、項の単位ですけど別の条文にしています。それから、ヨーロッパ基本権憲章になりますと、第七条それから第八条というふうに条の段階で、古典的なプライバシー、私生活の保護と個人情報の保護は区別されて規定されております。
 そして、こちらの情報自己決定権型の新しいプライバシーにつきましては、これは憲法で制定することに意義がないわけではないというふうに感じております。その理由ですけれども、個人情報保護法の立法段階で自己情報コントロール権を明記することが議論されましたけれども、結局、権利としての成熟性に欠けるとして見送りになったという経緯がございます。そこからいたしますと、憲法で明文化した上で、さらに法律の方でそれを受けて具体化していくということに権利の保障にとって一定の意義があるのではないかと思います。
 ただし、憲法に自己情報コントロール権のようなものを書きさえすれば具体的な権利が発生するわけではないということ。また、裁判所がその気になれば、自己情報コントロール権として言われていることも実は相当範囲で保護が可能だということ。そして、もしも本当に実践的な意義を憲法改正に求めるのであれば、結局は、どういうやり方で個人情報を保護しろというかなり具体的な規定を憲法レベルで書いたような、そういった場合になってくるのではないか。
 その例としては、先ほど申し上げました欧州基本権憲章の八条三項に、独立の機関を設置して個人情報の保護の条件が遵守されているかを監督しろというような例がございます。ただ、このような細かい規定というのは、立法府、国会との関係で、憲法がそこまで細かいことを国会に対して指示しなきゃいけないのかという、そういった疑問も生じてくるところです。
 次に、環境権のところに進ませていただきます。
 環境権というのはいろいろ定義はございますけれども、少なくとも人の生命や健康にかかわる場合には人格権又は人格的利益ということで判例上も救済されているわけでありますから、環境権というものを唱える以上は、それをはるかに超えた部分、要するに、より良好な自然環境それ自体の保護というのが保護法益になってくると思います。
 環境保護の重要性については、これは今日では全く異論のないところです。ただし、環境権というのが憲法学説でも有力に主張されているんですけれども、結局は保護されるべき環境の範囲とは何なのかがよく分からない、あるいは環境権の権利主体が誰なのかよく分からない、あるいはそもそも環境というのは公共財ではないかといった問題がございまして、結局、環境権というのは抽象的権利ですらない理念的な権利という性格にとどまるのではないかと、そのように私も考えております。
 そのことは、権利として環境を保護することの限界、言葉を換えて言いますと、環境保護というものが重要なんだということを宣言するのであれば、憲法において別の形式を取ることを考えた方がよいのではないかということにつながってまいります。
 その別の形式というのが国家目標規定という形式でございます。この国家目標規定の定義はちょっとややこしいんですけれども、市民に権利を与えるタイプの規定ではないと、そして国家権力をある一定の目標の実現に向けて法的拘束力をもって義務付ける、そのような規定でして、最もよく知られているのがドイツの環境国家条項というものでございます。この条文は、国は、次の世代に対する責任を果たすためにも、憲法的秩序の枠内において立法を通じて、また、法律及び法の基準に従って執行、裁判を通じて自然的な生命基盤を保護するという、権利主体としての国民は出てきませんで、国の責務という形式でうたっております。
 ほかにもこの環境保護、比較憲法的には様々な形で書き込まれておりまして、例えば環境保護にとって一番、何ですかね、衝突する、あるいは壁になるような人権は何かというと、経済活動の自由なわけですから、幾つかの国の憲法では経済活動の自由の限界として環境保護というのをうたうと、そういった例もございます。
 レジュメにお書きしましたルーマニアの憲法、これは財産権についての条項の中で環境保護をうたっている。あるいは、別の国の憲法では、市場経済の諸原理という形で環境をうたっていると。それから、国によっては環境権型なんですけど、ブルガリア憲法では、市民は自然環境を享受する権利を有すると書くとともに、環境の保護を義務付けられるという義務も併せて書くと、そういった形式の憲法もございまして、これを見ても分かりますように、どこの国でも環境というものの、大事だというのは共通の認識であるとしても、どうやってそれを表現すればよいのかについてはいろいろと悩んでいるところではないかと思います。
 三ページ目に進ませていただきます。
 冒頭申しましたように、新しい人権を憲法に追加するかどうか、それは一つは、どのような憲法を望むのか、憲法に何を求めるのかという問題にかかわってくることであろうと思います。
 まず一点目は、人権と統治というのは基本的に筋の違う話でして、例えば国会について、二院制を取るのか一院制を取るのか、あるいは審議・議決の要件、三分の一なのか二分の一なのかといった、そのようなことは憲法でルールとして明確に定めておかないと、これは全くどうしようもないことなんですね。あるいは、この二分の一、三分の一を変えたいのであれば、それはもう条文を変えるしかないということになってきます。一方、人権については、原理あるいは普遍的な理念という性格がございますので、憲法にどれくらい書いてあろうが、憲法解釈上は主要国の人権の保障のレベルというのは大体似てくるようなものだというふうに思っております。
 憲法改正といいますと、新しい人権をどこまで増やすかというところに目が向きがちですけれども、逆に憲法改正によって今ある人権規定をどこまでばっさり切れるかと考えてみた場合には、例えば十三条の個人の尊重ですとか、あるいは十四条の平等ですとか、あるいは新たに一般的な手続的な保障のようなものがあれば、この憲法第三章で保障する、例えば表現の自由とか思想、良心の自由みたいな個別規定を仮に削ったとしても、今言ったような包括的規定から演繹可能なんですね。人権というのは、およそそういったものだというふうに私は思っております。
 憲法改正ということになりますと、やはりあれも欲しい、これも欲しいで、どんどんどんどんいろんな案が出てくると思うんですけれども、特にそういうような場合には、どこまで逆に簡素化できるのかという逆の方向から考えてみることも有益なんではないかというふうに思います。
 それからもう一点、個別の人権として保障されているかどうかにかかわらず、国民の一般的な自由を制限する限り、国家の行為には目的の正当性あるいは手段の合理性というのはどのみち要求されるわけですから、新しい利益、新しい重要なこと、それを逐一憲法に書き込む必要もないんではないかというふうに思います。
 最後に、いかなる憲法を構想するかということなんですが、大きく分けまして、ここでは二つの憲法の構想があるということをお話ししたいと思います。
 一つは、憲法のシンボリックな意味、あるいは国民を含む政治過程に対する意義というものを重視して、そしてその国家や国民が実現すべき価値や理念、それを明確に宣言するという、そういったタイプの憲法。もう一つは、憲法裁判を前提に、法として裁判所によって貫徹できる範囲、要するにそれ以上の余計なことは書かない方がいいという、そういった憲法構想がございます。
 前者の例がワイマール憲法、後者の例がドイツの基本法、現行憲法だということになると思います。このドイツの現行憲法では、ワイマール憲法とは異なりまして、古い古典的な基本権、あるいは前国家的な権利のカタログに人権規定を限定した。御存じのように、ワイマールの場合ですと、社会権その他、様々な条項が含まれていたわけです。
 このどっちの憲法を選択するかによって、特に環境保護ですとか、あるいは子供や障害者や犯罪被害者の人権といった、そういったものを書いた方がいいのか、書かない方がいいのかに対する回答は違ってくると思います。ただ、その二つの憲法構想のうち、どちらが正解というものではございませんで、正解というのは存在しないと、どちらかを自覚的に議論した上で選択していくものだということになってまいります。そして、どちらの憲法観に立つのかを決めた上で、その上でどの条項を導入するのか、それらを決めていくことになってくると思います。
 本当の最後になりましたけれども、特に新しい人権というのは、立法による具体化に依存するものというのが非常に多いと言うことができます。ただ、新しい人権として書いた場合はもちろんですけれども、書かなかった場合も、この立法というのは、よく立法裁量と言われますけれども、その立法裁量というのは行政裁量とは全く違った性質のものだというふうに思います。
 要するに、行政というのは法律を執行する機関ですけれども、立法府というのは憲法の執行機関ではないんですね。自ら価値を設定して、自らその手段を探求して、そして制度を構築していく、そのような立法の責務というのを十分果たせば、逆説的に新しい人権の条項は要らないのかもしれませんし、あるいはそれをより力付けるために新しい人権の条項が要るのかもしれませんし、その辺私はよく分かりませんけれども、ちょうど時間が参りましたので、これで私の報告とさせていただきます。

○小坂憲次憲法審査会会長 ありがとうございました。
 以上で参考人の方々からの意見聴取は終了いたしました。
 これより質疑に入ります。
 お手元に配付をいたしております参考人質疑の方式に関する留意事項のとおり、本日の質疑は、あらかじめ質疑者を定めずに行います。質疑を希望される委員は、お手元にある氏名標を立ててお知らせください。そして、会長の指名を受けた後に発言をお願いいたします。
 質疑の時間が限られておりますので、一回の質疑時間は答弁及び追加質問を含め八分以内でお願いいたします。すなわち、参考人の方々の答弁時間を十分に考慮いただき、質疑の時間の配分に御留意ください。発言が終わりましたら、氏名標を横にお戻しください。
 参考人の方々におかれましても、答弁はできる限り簡潔にお願いをいたします。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、質疑を希望される方々は氏名標をお立てください。

○小坂憲次憲法審査会会長 次に、舛添要一君。

○舛添要一 まず、お二方にお伺いしたいんですが、小山先生おっしゃったように、私は、憲法改正のその中身を考えるときに、統治機構の分野と基本的人権というのは非常に違うなというふうに感じています。
 現実に、基本的人権で新しい人権を加えるというのは、一つは、状況に応じて憲法は世の中変わるんだからやっぱり変えないといけないですよという改憲論を加速させるための一つのてこのような感じで、先ほど小林先生もおっしゃったように、環境権加えるのに誰も反対する人いないでしょうと、ここから練習問題として九十六条の問題も含めてやってみましょうという、そういう発想が出てくるんで、これ、裏返せば、実は何もしなくても、別に加える必要もないじゃないかということで、例えば犯罪被害者の権利というのは随分議論して、これは、犯罪を犯した方はしっかり守られているのに、個人の名前の暴露から始まって被害者の方及びその家族全然守られていないじゃないかという、そういう要請から出てきたんだと思うんです。
 そこで、今、司法の、民事訴訟法を含めて司法の側面からの議論が前川さん含めてあったんですけれども、もう一つ、立法者の立場からいうと、憲法上にその条文があるかどうかでやっぱりかなり違う感じがするんで、一つ例を挙げますと、私は政党という条項を憲法に入れた。それは、政党助成法を含めて、政党に関する憲法上の根拠が何もない。その下で例えば政党助成法を作るというときに、いや、これはこういうふうに現代民主主義の基礎が政党であるからここだという、そういう憲法上に淵源を持っているということが非常に立法府、立法者としてやりやすいというのがあるんですね。
 だから、そうすると、ただ、それに対しても、じゃ、そんなこと言ったら環境権だって二十五条の生存権でやれるじゃないのということもあるんです。例えば、フランスの憲法なんかだと、もうこれは釈迦に説法ですけれども、EUに入って、外交権が、その主権、ネーションステートじゃないEUというものに持たせるということは憲法を変えないとできないですから、これはマストなんですね。だから、ちょっとそういうことのきちんとした整理をやらないといけないと。  それから、政党で憲法改正文作るときはチームに分けるわけですよ。そうすると、憲法九条やる方はもう徹底的にやるんだけれども、じゃ、基本的人権のチームは何もやらぬのかねと、何かやらぬといかぬじゃないかという感じも実は作る方からいうとあるんです。
 だから、ちょっとそういうもやもやとした思いがありますので、両先生にちょっと今の私の問題提起のようなことについて何らか御参考になるような意見を賜ればと思っています。

○小坂憲次憲法審査会会長 それでは、今度は小山参考人からお願いいたします。

○参考人 小山剛慶應義塾大学法学部教授 実際の憲法改正の場というのは、そういういろいろあるんだと思います。やっぱり憲法というのは、何か大きな出来事があった後にばっと変えるのが普通であって、その後は、何ですかね、メンテナンスを少しずつやっていくと。そして、特に平和な時代で憲法を大きく変えようとした例としてスイスがございますけれども、改憲までにどれくらい時間掛けたんですか、ちょっと、えらい長い時間を掛けているわけですね。
 先生おっしゃるように、やはり何か立法を行う場合に憲法に関連条項があった方がいいというのは、そのとおりだと思います。例えば、日本で生活保護法がある、あるいは日本で国民は全員保険に入らなきゃいけないと、これは当たり前のようですけれども、そして、それが違憲か合憲かというのは、額が低過ぎるという形での違憲論はあるけれども、強制することが違憲かという形での違憲論はないと思うんですね。それはやはりこの二十五条のおかげだというふうに思います。
 それで、もう一つ、政党条項はいろいろと考え方あるところだと思いますけれども、憲法を改正しなきゃいけないというこのマストというのは、EUの場合ですと外交、先生がおっしゃったのがありますけれども、例えば連邦国家、ドイツなどですと、非常にこの条項が細かいわけですね。何が連邦の権限で、何が州の権限かと。
 例えば国鉄の民営化は、日本では憲法改正は必要ありませんけれども、ドイツだと必要があったと。だから六十回ぐらいの、要するに連邦の権限としてこの国鉄というのが入っているわけですね。連邦の権限として何々があると、それを民営化するとなりますと、これは憲法事項なわけなんです。だから、六十回ぐらい改正していますけれども、結構そのうちの多くのものは、まあ何といいますか、ドイツの憲法の固有の条項に、性格によるところの改正であります。

○小坂憲次憲法審査会会長 小林参考人、お願いいたします。

○参考人 小林節慶應義塾大学法学部教授 確かにおっしゃるとおり、統治機構というのは憲法にかっちりと書かれているから、それを変えるには憲法を改正しなければならないと。ところが、人権というのは、要するに人格的生存が害されるか否かですから、歴史のある既存の条文をいろいろひっくり返していれば大体用が済むということで、確かに立法府において憲法改正発議作業という点では手間に違いがあるということは今日はっきり認識いたしました。さっきのEUの話でも、これも一種の革命で、簡単に言えばイタリアがイタリア国からヨーロッパ合衆国イタリア県になるわけでありますから、それも革命なんですよね。
 だから、日本でも、憲法改正を考えた場合には、舛添先生とはそういうたぐいの勉強で何度もお目にかかっていますけれども、憲法改正を真面目に考えるとなると、やはりちょっと大きな話題が最初にどんとあって、それが牽引車にならなければいけないので、やはり人権論でやっている限り物は先に進まないと思うんですね。
 やはり、さっき宇都先生から問題提起がありましたけれども、堂々と九条論で切り結んだらいかがですか。やっぱり、あの敗戦で九条がどっちみち異常にどてんと降ってきて、その後、今それで一生懸命言い訳しながら来ているわけじゃない。やはり本丸は九条ですよ。こういう大きなものでやらないと改憲のエネルギーって生まれないと思うんですね。
 変なお答えですけど、以上でございます。

○舛添要一 どうもありがとうございました。

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