ホーム プロフィール ブックス サイトマップ
国政報告
参議院憲法審査会
日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査

平成25年5月29日 (水曜日)
    ─────────────

○小坂憲次憲法審査会会長 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査を議題とし、「新しい人権」に関し、事務局から憲法調査会報告書について報告を聴取いたします。情野憲法審査会事務局長。

○情野秀樹憲法審査会事務局長 憲法審査会の前身である憲法調査会における「新しい人権」に関する議論の概要について、便宜、私から御説明させていただきます。
 憲法調査会において取り上げられました「新しい人権」は、プライバシー権、環境権、知る権利、自己決定権、生命倫理、知的財産権、犯罪被害者の権利など多岐に及んでおります。
 お手元に、平成十七年四月に憲法調査会が取りまとめました日本国憲法に関する調査報告書の抜粋を配付いたしております。本日は、これに基づいて御説明させていただきます。
 新しい人権については、「新しい人権として加えるべきカタログの内容」だけでなく、「憲法上新たに規定を設ける必要性の有無」、「新しい人権を考える際の留意点」などを検討課題として、広範な御議論がございました。
 報告書は、調査会における議論の状況を分かりやすく示すために三つのカテゴリーに整理してまとめられました。すなわち、一つ目は、共通又はおおむね共通の認識が得られたものでございまして、当時の調査会を構成している会派である自民、民主、公明、共産、社民の五党で一致又はおおむね一致したカテゴリーでございます。二つ目が、自民、民主、公明の三党がおおむね一致した趨勢である意見、三つ目が、意見が分かれた主要なものでございます。
 「新しい人権」につきましては、共通又はおおむね共通の認識が得られたもの、そして趨勢である意見のそれぞれの箇所で取り上げられております。
 まず、報告書の百三十二ページを御覧いただきますと、太線によるアンダーラインが付されておりますが、新しい人権については、原則として、憲法の保障を及ぼすべきであるということが共通の認識であったとされております。
 その上で、憲法を改正して憲法上に新たに規定を設けることの必要性の有無につきましては、次の百三十三ページにありますように、憲法上の規定を新たに設けるべきとする意見と、憲法上の規定を新たに設ける必要はなく、十三条の幸福追求権等の解釈で読み込めるとする意見に分かれました。
 百三十三ページの「憲法上の規定を設けるべきとする意見」は、白抜き文字で表記してありますように、趨勢の意見だったわけでございますが、そこでは、人権保障がより明確になることを考慮して、新しい人権カタログを何らかの形で憲法規定の中に取り入れることを検討すべき、憲法制定時には予想もされなかった社会状況の変化に対応するには、人権保護の視点から新たな人権規定を設けるべき、国際的水準に見合った人権を考えるべきなどを理由とする意見が示されたところでございます。
 他方、「憲法上の規定を設ける必要はないとする意見」は少数にとどまっておりまして、新しい人権は、憲法の人権規定を踏まえて、国民の運動により発展的に生み出されてきた権利であり、十三条など現憲法の人権規定により根拠付けられている、憲法は、奥深い容器として時代に即応した新しい権利を抱き取るような柔構造、時代に弾力的に対応できる構造になっている、新しい人権については、基本法を制定し、個別法により具体的権利を保障するシステムを取るべきなどを理由とする意見が示されております。
 次に、報告書の百三十四ページを御覧ください。「新しい人権を考える際の留意点」についての御議論でございます。人権規定を加えるか否かを判断する際の留意点として、保護すべき新しい利益が個人の人格的生存に不可欠であって一般社会に承認されたものであるか、他の人権との調和はどうか、人権カタログのインフレを招かないかなどについての慎重な配慮が必要である等の意見が出されました。
 実効性の確保につきまして、具体的権利義務の内容を明確にし、人権を保障する付加的制度が不可欠とする意見や、新しい人権規定を追加するよりも、特に立法、司法分野における現実の保障システムの充実が望まれるとする意見が出されました。
 次に、新しい人権の個別メニューについてでございますが、ここでは、憲法上の規定を設けるべきとすることが趨勢の意見となりましたプライバシー権と環境権について申し上げます。
 プライバシー権につきましては、報告書の百三十六ページに記載されております。これについては、白抜き文字で表記してありますように、憲法上の規定を設けるべきとする意見が趨勢でございました。
 そこでは、IT社会の進展等に対応して、国民の個人情報を守る権利等を新しく追加すべきである、プライバシーの権利を自己に関する情報をコントロールする権利ととらえ、憲法上の権利として明示することを検討すべき、プライバシーは平穏な生活の基礎であり、新たな人権規定として憲法に明記することが必要などの見解が示されました。
 これに対しましては、プライバシー権が十三条に基づいて保障される点に大きな争いはないとして憲法上の規定を設けることについての消極的な意見もございました。
 続きまして、環境権に移らさせていただきます。報告書の百三十七ページに記載されております。白抜き文字で表記してありますように、環境権あるいは環境保全義務については憲法上の規定を設けるべきとする意見が趨勢となっておりました。
 そこでは、二十五条の健康で文化的な最低限度の生活と十三条の幸福追求の権利を根拠とする、健康で良い環境を享受する権利として明記すべきとする意見のほか、人権としての環境権を基本にし、環境保全義務の規定を含むことが望ましいとする見解、地球環境問題は日本の国際貢献の最重要分野の一つであり、同時に、日本は自然と共生してきた長い歴史と伝統を持っており、日本が環境を重視する国であることを憲法上も明らかにすべきなどの見解も示されました。
 これに対しましては、環境権実現のためには、具体的権利等を法律で定めることが当面の課題であるとして憲法上の規定を設けることについて消極的な意見もございました。
 また、環境保全義務としてとらえた場合の義務の性格については、報告書百三十八ページにありますように、権利の反面としての義務という強い規定ではなく、より緩やかな規範という意味での責任あるいは責務という形で規定するのが適当ではないかという意見も出されております。環境保護に努める国民の責任という視点を提示する意見もございました。
 このほかにも、知る権利や自己決定権等、新しい人権として検討されたメニューがございますが、それらにつきましては意見が分かれ、憲法上の規定を設けるべきとする意見が趨勢となるには至りませんでした。お手元の報告書の百三十五ページ及び百三十九ページ以下に記載されておりますが、説明は割愛させていただきます。
 以上が憲法調査会における「新しい人権」の御議論の概要でございますが、報告書は御案内のとおり提出されましてから八年が経過しており、その後、各政党において御論議が進められ、また、新たに政党が結成され、憲法に関する政策提言もお出しになっております。ここではその内容まで御紹介いたしませんが、その点を申し添えさせていただきます。
 以上でございます。ありがとうございました。

○小坂憲次憲法審査会会長 以上で事務局からの報告の聴取は終了いたしました。
    ─────────────

○小坂憲次憲法審査会会長 次に、「新しい人権」のうち、基本的人権全般について参考人の方々から御意見を聴取いたします。
 本日は、明治大学法科大学院教授高橋和之君及び京都大学大学院法学研究科教授土井真一君に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方々に一言御挨拶を申し上げます。
 本日は、公私共に大変御多忙なところ本審査会に御出席を賜りまして、誠にありがとうございます。審査会を代表いたしまして心から御礼を申し上げます。
 これまでの経験を踏まえた忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、どうぞよろしくお願いを申し上げます。
 本日の議事の進め方でございますが、高橋参考人、土井参考人の順にお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただいた後、各委員からの質疑にお答えをいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず高橋参考人にお願いをいたしたいと存じます。高橋参考人。

○参考人 高橋和之明治大学法科大学院教授 どうもありがとうございます。
 人権総論について話してほしいという御依頼をいただきました。人権総論というのは、通常、大学の授業では数時間を使って話されるわけでありまして、今日は十五分でということでありますから、ごく基本的な考え方のみに限定して話させていただきたいと思います。
 基本的な考え方というのは、突き詰めれば人権とは何かということに帰着するというふうに考えております。早速レジュメの時計数字Tから参りますけれども、人権とは何かということを考える手掛かりというのは憲法十三条であります。その第一文は、これはレジュメの下の方に参照条文として書いておきましたけれども、「すべて国民は、個人として尊重される。」と定めております。この規定の中に、日本国憲法が保障する人権の基本的な価値原理が表明されていると私は理解しております。個人としてという文言が非常に重要でありまして、これにより、いわゆる個人主義の価値原理にコミットしたということを表現しているのであります。
 個人主義は様々な意味で理解され、時には自分の利益しか考えない利己主義的な生き方という意味で使われることさえありますけれども、ここでは、社会と社会を構成する個々人の関係、つまり全体と部分の関係について、価値の根源は社会の側ではなく個人の側に置かれるべきだという意味で使っております。目的と手段という言葉で言い換えれば、個人こそが目的であり、社会はその手段と理解すべきだという考え方であります。
 価値の根源が個人の側にあるということを憲法は個人の尊厳という言葉でも表現しておりまして、それは憲法二十四条に、これは家族の在り方について定めた規定でありますけれども、そこに表れておりますけれども、憲法十三条は、個人の尊厳という価値原理を個人として尊重するというふうに表現したのだと私は理解しております。
 この十三条第一文を受けて、個人として尊重するということの意味をもう一歩進めて、主観的権利として具体化したのが第二文であります。そこには、生命、自由及び幸福追求に対する権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とすると定められております。つまり、国民は、生命、自由及び幸福追求に対する権利、これを通常、略して幸福追求権と呼んでおりますけれども、幸福追求権を保障されるということが規定されているのであります。第一文を受けての第二文の規定でありますから、これを私は、個人として尊重するということの意味を、幸福追求権を保障するとして一歩具体化した規定だと解しております。
 では、幸福追求権とはいかなる内容の権利と想定されているのかということでありますけれども、個人主義の原理が基礎になっておりますから、社会は、個人が自ら最善と考えた生き方を選択し、実践することを尊重するんだということを約束しております。これを個人の権利の側から見れば、個々人は自らが最も良いと考える生き方を選択し、決定し、それを実践していく権利が保障されているということになります。自ら選び、実践していく生の在り方を自律的生と呼んでおりますけれども、幸福追求権とは自律的生に必要不可欠の権利ということになります。
 しかし、このように理解された幸福追求権というのはまだ抽象的な内容にとどまっており、保障をより実効的にするためには、それを更にもう一歩具体化する必要があります。それを行っているのが十四条以下に列挙された個別的人権の規定だということになります。
 このように解すると、幸福追求権とは、自律的生に必要不可欠な権利を抽象的なレベルで包括的にとらえた権利ということになり、この包括的な権利から具体化されて取り出されたのが個別的権利だという理解になります。
 時計数字のUに入りますが、このような人権は、憲法に取り込まれたことにより、憲法の持つ性格によって枠をはめられることになります。
 憲法は国家権力の組織とその行使方法を定めた規定でありまして、したがって、憲法が適用されるのは権力を行使する立場に立つ者に対してであります。これを、憲法の名あて人は国家であるというふうに表現しているのでありますけれども、このことから、憲法上の人権の名あて人も国家であるということになります。
 憲法上の人権を基礎付けている人権思想自体は、先ほど言いましたように、社会関係の基本原理という性格を持っておりますけれども、憲法上の人権は、憲法規範の性質による枠付けがなされているということになります。したがって、憲法上の人権は、国家と国民の関係にのみ適用され、国民と国民の間の関係、これを私人間関係と呼んでおりますけれども、その私人間関係には適用されないということになります。
 では、私人間においては人権は法による保護を受けないのかというと、そうではありません。私人間の法的規律は法律により行うのが憲法の想定しているところでありまして、私人間で生ずる人権侵害を予防し救済するのは法律の役割なのであります。
 その法律を制定するということは、これは立法権という国家権力の行使でありますから、当然、憲法に従ってなされなければなりません。したがって、私人Aと私人Bの間の権利利益の対立を調整する法律を制定するという場合、立法者はその法律の内容を、Aが国家に対して主張し得る憲法上の権利も、Bが国家に対して主張し得る憲法上の権利も侵害しないようなものとして制定しなければなりません。
 しかし、これはA、B間に憲法上の権利を適用しているということではありません。憲法上の権利が考慮されているのは、あくまでも国家とA及び国家とBの間といういわゆる縦の関係においてでありまして、A、B間という横の関係ではないのであります。法律が縦の関係において憲法上の権利を尊重するということを通じて、A、B間の横の関係においても言わば反射的に保障されるということができますけれども、しかし、法律の定める範囲内で、実際上はA、Bいずれかの強者が、例えば契約によりその意思を弱者に押し付けたり、あるいは事実行為を通じて相手に不当な損害を与えて人権侵害を行うということが生じないわけではありません。
 このような場合に弱者の人権をどう救済するか、これが人権の私人間効力の問題でありますが、答えは簡単で、それは民法九十条、これは公序良俗に反する法律行為は無効であるという規定ですけれども、それや、民法七百九条、不法行為による損害賠償を規定した条文でありますけれども、こうした民法の一般的、概括的な規定を適用して救済するというものであります。
 一般的、概括的な規定でありますから、具体的な場合におけるその意味というのは解釈により決めるということになりますが、その際、民法二条、この条文も参考条文のところで挙げておきましたが、民法二条が規定しているように、個人の尊厳に従って解釈すればよいということであります。
 個人の尊厳という憲法の人権の基礎にある言葉を使っていますから、憲法上の人権が民法の一般規定に読み込まれ、憲法が間接的に適用されるというのが従来の通説の考え方でありますけれども、私はそうではないというふうに考えております。憲法上の人権の基礎にある人権思想と同一の人権思想が民法にも取り入れられているということであり、その人権思想によって民法を解釈するんだということであります。
 時計数字Vに入ります。
 憲法十三条第二文はもう一つ重要な原理を規定しております。それは、幸福追求権の保障というのは絶対的ではなくて、公共の福祉による制限を受けるということであります。もちろん、公共の福祉に反しない限り最大の尊重を必要とするというふうに規定しておりますから、その制限は必要最小限でなければなりませんが、十三条の規定の性質が抽象的であるのに対応して、ここでの公共の福祉も抽象的な権利制約原理として述べられているということになります。
 したがって、公共の福祉の具体的な内容というのは個別人権ごとに具体化する必要があります。その具体的な内容というのは、まず立法者により定められ、最終的には最高裁判所によりそれが必要最小限のものとして規定されているのかどうかということが判断されるということになります。そして、それを判断する場合の基本的な考え方が人権と人権の衝突の調整というものでありました。
 つまり、ある個別的人権の規制が公共の福祉による制約の範囲内のものとして正当化されるものなのかどうか、その個別的人権の行使と衝突する他の人権との調整として均衡しているかどうかということを基準にそれを判断するというものでありました。このことを、公共の福祉というのは人権と人権の衝突の調整原理であるというふうに表現してきたのであります。
 この考え方は、権利を個々の国民の利益には直接には関連付けることの困難な国家の利益によって制限していた戦前の在り方を、戦後根本的に変更しようとしましたときには非常に重要な考え方であり、日本国憲法の解釈学説として通説的な地位を占めてきたということにはそれなりの理由があったと言えます。しかし、いわゆる人権のインフレ化という弊害も伴いますので、現在その見直しが学会でも議論されているところであります。
 レジュメの時計数字Wに入りますが、日本国憲法は十三条で幸福追求権という包括的な権利を抽象的な権利として保障し、それを基礎にして十四条以下で憲法制定時点において自律的生に不可欠と憲法制定者が考えた権利を個別的権利として規定いたしました。
 しかし、憲法制定時点においては憲法で規定するまでもないと考えられていた利益が、その後の状況変化により憲法による保障が必要だと感じられるようになることが起こり得ます。そのような場合にまず考えるべき対応方法、対処方法は、法律によりその権利を保障することであります。権利侵害が私人あるいは行政により行われる危険が大きいような場合には、この対処方法が有効に働くでありましょう。
 しかし、権利侵害が立法により行われる危険が大きいというような場合には、立法府に期待することは困難でありますから、憲法を改正して新しい個別的人権の規定を置くということが考えられることになります。しかし、日本国憲法は、代表制を基本とし、憲法改正の発議権を国会に独占させ、国民には認めておりませんので、立法府が危険の源泉である場合には、憲法改正は有効な対処方法とはなりません。
 そこで出てくるのが、裁判所による新しい人権の創造、つくり出すという意味の創造ですけれども、創造という問題であります。裁判所は法の適用を任務とする機関であり、法創造を託された機関ではないから、そのような役割を裁判所に与えるのは憲法違反ではないかという疑念もないわけではありませんが、法適用は法解釈を通じての法創造を含み得るんだというふうに理解すれば、憲法解釈として可能な範囲内なら、新しい人権を裁判所を通じて創造するということも憲法の禁止するものではないと解釈することもできます。
 実際、憲法学説は、憲法十三条の幸福追求権を使って新しい人権を根拠付けてまいりました。最高裁も恐らくはこの理論を基礎にして、今日まで、例えばプライバシー権とか肖像権とか指紋を取られない権利とか名誉などの人格権等々に言及してきております。
 このような理解の下で、現在、学説上まだ未解決となっておりますのは、幸福追求権の範囲をじゃどう考えるのかという問題であります。それを広く解する一般的行為自由説と限定的に解する人格的利益説が対立しておりますけれども、ここではその問題には立ち入るのを避けたいと思います。
 総論の問題として議論されているもう一つ重要な問題としては外国人の人権という問題もありますけれども、これもお話をするとかなり時間を取りますので、ここでは省略させていただきます。
 以上で私の話を終わりますけれども、足りないところは御質問に答えるという形で補充させていただければ幸いであります。
 どうもありがとうございました。

○小坂憲次憲法審査会会長 ありがとうございました。
 次に、土井参考人にお願いをいたします。土井参考人。

○参考人 土井真一京都大学大学院法学研究科教授 本日は、意見を述べる機会を賜り、大変光栄に存じます。
 私の方からは、高橋参考人と重複するところも多くあろうかとは思いますが、新しい人権に関する議論の前提として、個人の尊重と基本的人権保障に関する基本的な考え方、そして包括的人権保障について私なりの意見を述べさせていただきたいと思います。
 高橋参考人もおっしゃられましたように、日本国憲法は第十三条において「すべて国民は、個人として尊重される。」と規定しております。この個人の尊重あるいは個人の尊厳が憲法の中核的原理であることは憲法学において広く認められているところでございます。
 では、この個人の尊重原理が一体何を意味するのかということが問題になります。何よりもまず重要な点は、一人一人の人間が価値の源泉であるということでございます。言い換えれば、個人の尊重とは、一人一人の人間に存在する固有の意義があり生きる目的があるということを私たちが相互に承認をするのだということを意味しております。これに対して、物ですとか道具といったものは固有の存在意義を持ちません。道具はそれを用いる者の役に立つことに意味があるのであって、役に立たなくなったり気に入られなくなったりすれば捨て去られるという運命にあります。
 しかし、人間はそうではありません。私たちは誰かのための単なる道具でも、ただ全体をうまく回すための歯車でもありません。私たちが互いを独自の存在の意義と生きる目的を持つ者として認め合うこと、これを私は人格の尊厳を承認するというふうに申しております。そして、このような人格である私たち一人一人は、同時に多様な存在でもあります。価値観、能力、性格、外観、皆異なっているわけです。この個性が一人一人の人間を形作っています。
 したがって、一人一人に人格の尊厳を認めることは各人の個性を尊重することを意味します。この人格の尊厳と個性の尊重の両者を併せて日本国憲法は個人の尊重を定めたのだと私は解釈しております。
 そして、憲法がこのような個人の尊重を中核原理として定めた意義は、人間の共同関係、とりわけ国家をこのような個人の尊重原理に基礎付ける点にございます。議論の出発点は私たち一人一人であるということを意味しております。私は、かけがえのない生命を与えられ、その個性を大切にしながら、幸福な人生を生きようと懸命に努力しているわけです。
 幸福と申し上げますと、快楽や利己的な欲望を思い描く方もおられるかもしれませんが、人間の幸福はそれほど単純ではございません。自分の身近な人や大切な人の幸せもまた自分の幸せであるというふうに人間は感じるようになっているのだと思います。
 しかし、一人の力に限りがある以上は、自ら幸福な人生を生きようとすれば、互いに協力して共に生きていかなければなりません。そのために、人々の意見や利害の対立を調整し、秩序を守り、共同の利益を確保する働きが必要になります。それが政治であり、そのような政治的共同体が国家であると考えるわけでございます。つまり、人々が国家をつくり、その支配に服するのは、互いに協力することによって共同の利益を生み出し、各自がより幸せになるためだと思います。そう信ずるからこそ、私たちは互いに譲り合い、我慢もするわけです。
 したがって、国家はこのような目的を実現するように設計されなければならないのであって、このような目的に反する国家に対して人々は異議を唱えることができなければなりません。この点が個人の尊重を基礎とする国家論の真髄であると私は理解しております。
 このような考え方を基礎とするならば、人々は共同し国家をつくるために公正な条件をあらかじめ定めなければなりません。この条件が破られれば、それはもはや対等な人格の協力関係ではなく、あからさまな力による支配に陥ってしまう。そのような共同のための公正な条件を定める法が憲法なのであり、その中核となる規定が基本的人権条項だと考えております。
 それゆえにこそ、憲法は国家の根本法であり、かつ最高法規であって、その改正には厳格な手続が定められることになるわけです。これが立憲主義であり、憲法を定め、それに基づく政治を実現することで、個人が尊重される共同関係、みんなとともに自分らしく生きることができる協力関係を築こうとする思想であると私は考えております。
 したがって、国民主権国家におきましては、立憲主義の思想は、単に統治機構のみならず、主権者としての国民もまた共有しなければならない思想なのだというふうに考えております。
 二に、日本国憲法が保障する基本的人権でございますが、次に、このような共同の公正な条件として憲法はどのような権利、自由を基本的人権として保障しているかを見たいと思います。
 先ほど、私たちはかけがえのない生命を与えられ、その個性を大切にしながら幸福な人生を生きようと努力していると申し上げました。そのような人間の在り方に共感し、それを尊重するために、憲法十三条は個人の尊重条項の直後に、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を定めております。
 私が私として自分らしく生きていけるためには何が幸福か、何がよき人生かを自分なりに考え、選ぶことができなければなりません。私たちは他の人々と協力する必要がありますが、それによって私であることをやめるように強いられることがあってはなりません。そのことを保障するのが自由権的権利であり、基本的人権保障の中心的位置を占めています。
 次に、国家は私たちが形作る共同体なのですから、その共同の在り方を決める過程に私たち一人一人が参画できなければなりません。この民主主義の原則を権利として保障したのが憲法十五条を中心とする参政権的基本権になります。
 さらに、みんなで協力をして生み出した共同の利益なのですから、各人がこのような共同の利益に対して正当な持分を持たなければなりません。それを定めたのが憲法二十五条などの社会権的基本権となります。
 そして、憲法十四条は、私たちはこのような人権を認められた対等な存在として配慮を受けることを定め、これらの権利が侵害された際に救済を受けるために裁判を受ける権利など、法的保護を求める権利が保障されています。
 日本国憲法の規定は比較的簡潔であると言われるのですが、基本的人権保障に関する限り、個人の尊重を基礎に体系的な構造を有する相当程度行き届いた規定であると私は思っております。ただ、人間のやることは完全ではありませんので、憲法が個別に規定していない新しい人権の問題が生じるということになろうかと思います。
 第三に、包括的人権保障と新しい人権の問題でございますが、信教の自由や表現の自由などを定める憲法の個別規定が憲法の保障する基本的人権を限定するものであるか否かについては、日本国憲法草案を審議した帝国議会において既に議論がなされておりました。
 憲法十一条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」と定めております。ここに言う「すべての基本的人権」が、憲法が個別に規定する基本的人権をまとめた総称なのか、それを超えて文字どおり考えられる基本的人権を全て保障するものかが問題となりました。その結論は、憲法は、十一条において、およそ基本的人権と考えられる全てを保障することを明らかにした上で、そのうち重要なものを拾って具体的に定めたのであって、個別規定は基本的人権を例示するものだというものでございました。
 このような基本的な考え方を受けて、憲法による包括的人権保障の基礎となったのが憲法十三条の幸福追求権条項です。しかし、その文言は抽象的ですから、具体的にどのような権利が保障されるかが問題となります。
 これについては、学説上、一般的自由説と人格的利益説の対立がございます。例えば、賭博の自由ですとか自殺の自由といったものをめぐりまして、およそ全ての行為自由あるいは国家によって不合理な制約を受けない自由一般が保障されるのか、それとも、基本的人権と言う以上、人格的な存在として認められるために必要な権利が想定されるかという議論でございます。これは基本的人権とは何かという問題にかかわる重要な議論でございますが、本日は時間の関係もございますので、詳しくは触れさせていただけません。
 最後に申し上げておきたいのは、新しい人権保障の担い手の問題でございます。
 憲法それ自体は言葉ですから、自らが活動するわけではありません。したがって、誰かが憲法十三条を解釈して新しい人権を具体的に保障していく必要がございます。
 この点、憲法は八十一条で違憲審査権を認めておりますので、新しい人権保障の担い手として裁判所が重要な役割を果たすことが期待されております。実際、プライバシー権などは最高裁判所の判例によってこれまで承認されてきているところでございます。しかし、裁判所は、個別の訴訟事件を通じて権利を保障することがその任務ですので、思い切った形で新しい人権の保障を図ることには必ずしも適した機関ではございません。
 そこで、国民代表機関である国会の役割が重要であるということになるわけです。もちろん、広範な合意が得られれば憲法を改正して新しい人権条項を加えることも重要な手法だと思います。しかし、国会自身が権利保障の必要性を十分に認識しておられるのであれば、法律によってこれを実現していくという手法もございます。実際、知る権利は情報公開法によって、プライバシー権は一連の個人情報保護法によって具体化をされてきています。新しい人権を保障する必要があるから直ちに憲法改正だというわけでは必ずしもありませんで、問題の状況や権利の性質などを考慮して、最も効果的で適切な方法を選択されるということが必要であろうと考えます。
 また、新しい人権の保障のために憲法を改正するといたしましても、これまで申し上げましたように、個人の尊重を基礎とする基本的人権保障の原理原則あるいは体系を前提として、その延長線上に人権の保障をより充実させる方向で検討をされるのが適切ではないかと個人的には思っております。
 以上で私の意見陳述を終わらせていただきます。
 どうもありがとうございました。

○小坂憲次憲法審査会会長 ありがとうございました。
 以上で参考人の方々からの意見聴取は終了いたしました。
 これより質疑に入ります。
 お手元に配付をいたしております参考人質疑の方式に関する留意事項のとおり、本日の質疑は、あらかじめ質疑者を定めずに行います。質疑を希望される委員は、お手元にある氏名標を立ててお知らせください。そして、会長の指名を受けた後に発言をお願いいたします。
 質疑の時間が限られておりますので、一回の質疑時間は答弁及び追加質問を含め八分以内でお願いいたします。すなわち、参考人の方々の答弁時間を十分に考慮いただき、質疑時間の配分に御留意ください。発言が終わりましたら、氏名標を横にお戻しください。
 参考人の方々におかれましても、答弁はできる限り簡潔にお願いいたします。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、質疑を希望される方は氏名標をお立てください。

○舛添要一 今日は大変ありがとうございました。
 まず、私も、高橋、土井両参考人と同じように、その十三条の個人としてと、個人として全て国民は尊重されるという、個人としてという言葉は非常に、憲法学説的にも人権論の系譜からいっても非常に重いというふうに思っています。
 私がかつて自民党にいたときに、自民党の第一次憲法草案はきちんと個人としてという文言をそのまま維持をいたしましたけれども、昨年発表されました第二次自民党の草案では、個人じゃなくて人としてというふうに変わっています。私は、恐らくその議論の、そこにいたわけじゃありませんけれども、その議論の背景としては、個人というのは何か個人主義で勝手ばかりやって、権利ばかり主張して義務の観念がないんじゃないかというそういう、まあ悪く言えば感情的な議論に押されたのではないかなとそんたくする点もあるんですけれども。
 しかし、私は、立法者が個人の、そういう立法者の自由で法律とか憲法を書く権利はあるのかもしれないけれども、やはりこれまで営々と憲法学的な積み重ねがあるし、やはりその人権というのは人類の普遍的な権利で、フランス革命以来、例えば、もっと言うとマグナカルタでもいいです、ずっと積み上げてきたものの上にあるので、そういうことを踏まえた上で、憲法学的に論理的構成の面からも整合性のあるものを作るという慎重な配慮が立法者に私は必要だというふうに思っております。
 例えば、民法二条にしても「個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、」と書いてあるわけで、もし十三条を個人から人としてと変えるならば、じゃ民法の第二条はどういうように変えるんだろうかと、そういうことも考えないといけないので、大きな精緻な法体系、憲法体系という一つのマシンを一部分だけ扱えばそれで済むんではなくて、その一部分をいじくることによって全体が動かなくなるんではないかというそういう配慮も必要だというように思っているので、私は、やっぱり個人としてという言葉はきちんと守るべきで、人としてと安易に変えるべきではないと、そういうように思っておりますが、両先生のお考えを賜りたいと思います。

○小坂憲次憲法審査会会長 それでは、高橋参考人からお願いします。

○参考人 高橋和之明治大学法科大学院教授 個人としてというのを人として変えるのはどうかという御質問ですけれども、人としてと変えた意味が分からないとどう考えるかということもなかなか答えられない。まあ人としてって、とらえ方によれば、人間としてというような趣旨かなという気もいたします。
 それと、ドイツ基本法では人間の尊厳ということを言っている、日本国憲法では個人の尊厳ということを言っていると、これは意味が違うのかどうかという議論、学説の中でも対立がありますけれども、基本的に同じだろうというふうに私は考えています。
 ただ、その重視している点が違う。これはドイツの歴史と日本の歴史が違うということにも関係するんですけれども、人間の尊厳という意味で、仮に人としてということの意味をそういうふうに変える趣旨で言っているとすると、これはドイツ的な考え方にした方がいいんだという理解も可能になるかなと思うんですが、その場合に、ドイツに限らずヨーロッパ大陸諸国はこの人間の尊厳という言葉の方を人権論の基礎に置いておりまして、それは人間ということですから、何に対比されているかというと人間でないものです。例えば動物と対比して、人間は人間として扱わなきゃいけないよと。恐らく、ナチスの非人間的な扱い方というのが歴史として存在し、そういうことは一切もうやらないんだという宣言的意味が込められているんではないかなと思います。
 そういった指摘も法哲学者のホセ・ヨンパルト先生がかつてなされたわけですけれども、日本は個人の尊厳と、個人の方を強調した。これはなぜかというと、個人と全体、個と全体との関係において、戦前は全体の方が余りにも強調されたと。そういう在り方を改めて、やはり個の方に価値の根源を見る新しい社会関係をつくるんだということであったんだろうと思うんですね。
 日本には日本の歴史があり、その歴史を踏まえて新しい社会をつくっていくという場合には、個人の尊厳というのは非常にぴったりとした言葉であり、だから十三条でうたっているんだと理解しております。その場合に、それを人としてと変えたらどう意味が変わってくるんだろうか、その意味の変わり方いかんによってはどうなのかなと、賛成できるのかなという感じを持っているということであります。
 以上です。

○小坂憲次憲法審査会会長 それでは、土井参考人、お願いします。

○参考人 土井真一京都大学大学院法学研究科教授 憲法学説については既にもう高橋参考人詳しく御説明になられたので、私が思っていることだけ申し上げさせていただきます。
 人間という言い方をするときと個性という言い方をするときには、実は相対立するものを含んでいるんです。人としてと言うときには人として同じであるという方向につながるんです。個性というのは違うという方向につながるんです。この二つのバランスを取るために個人という言葉を使っている。人間として同じなんだけれども、それぞれの違いを尊重していこうというバランスを個人という言葉に使っているとするならば、やはりこの言葉というのは私は大事だと思います。
 それからもう一つ、個性というのはやっぱり社会全体にとっても重要なんです。個性というのは私と違う人がいるということなんです。私と違う人がいるというのは腹が立つときもありますし、うまくいかないときもあるんですけれども、私にはない可能性を持っている人がそこにいるということで、私とは異なる可能性を持っている人たちが互いに協力するというのは社会全体にとっても大きな力を引き出す源泉になるんです。
 だから、一人一人にとっても重要なことですし、社会にとっても重要なことだという意味で個性というのは大事だと思いますので、個人の尊重ということには私は私なりに非常に大事な意義があるんだというふうに考えております。

○舛添要一 時間が参りましたので、終わります。ありがとうございました。

  Top  

無断転載を禁止します